空想商會

日々の記録。料理やカフェや雑貨の話題が多めです。

救出劇

 昭和50年代の夏のできごと。

 当時、私は大阪府茨木市に住んでいた。今はどうなのか知らないが、その頃そのあたりはずいぶん田舎だった。田んぼの中のあぜ道を通って小学校へ通っていた。

 私は転勤族だったので住宅街に住んでいたが、そこでも家と家の間には飛び石のように田んぼが点在していた。家から5分歩けば本格的な田園風景を見ることができた。

 夏の田園風景は壮観だった。紺碧の空に万緑の稲、あざやかなブルーとグリーンのコントラストが大変印象的だった。緯度の低い関西ならではの風景だ。北国ではああいう鮮烈な色彩は見ることができない。

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 盛夏になると田んぼには鳥よけの網が張られた。幼穂が鳥に食べられてしまうのを防ぐためだ。ただ私がこのことを知ったのは後になってからで、子供の頃は何のために網を張るのかよくわかっていなかった。

 ある日、いつものように友だちと田んぼの脇を通りかかると、網の端でもぞもぞ動いているものがいる。近寄ってみるとそれは一羽のスズメだった。網が脚に絡まり動けなくなってじたばたもがいていたのだ。

 当時まだ5、6歳だった私たちは、反射的に「スズメを助けなきゃ!」と思った。網から外してやろうとしたが、思った以上に網はこんがらかっていて解くことができない。もがくスズメを保護しつつ網を解くのは幼い私たちには不可能だった。

 網を外せない以上、スズメを助けるには網を切るしかない。子供特有の直線的思考で私たちはそう結論づけた。

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 私たちは田んぼの近くに住んでいる子の家に行き、その子のお母さんからハサミを借りて再び田んぼに戻った。さいわいスズメはカラスに喰われることもなく、まだ無事でそこにいた。

 私たちは躊躇なく網をざくざく切った。ほどなくしてスズメを網から解放することができた。スズメは自由の身になるとたちまち空に飛んでいった。「スズメさんバイバイ」「もう捕まらんようにな」「はよお母さんとこへ帰りぃ」私たちは口々にスズメに別れを告げた。

 スズメが助かって良かったという安堵と「いいことをした」という達成感でいっぱいになって、私たちは帰途についた。

・・・☆

 私たちはハサミを貸してくれたお母さんにお礼を言いつつ、この救出劇のことを話した。彼女は「てっきり工作に使うもんやと思って…」と絶句したが、一瞬間をあけた後「ええことしたな」と褒めてくれた。とても誇らしい気持ちだった。

 私たちの英雄的行為が、法律上は器物損壊と業務妨害という軽犯罪に相当すると知ったのは、だいぶ後になってからである。その場に農家の子がいればまた違ったのだろうが、その時の面子は転勤族のサラリーマンの子ばかりだった。農家の立場でものを考えることができなかったのだ。

 自分が親になった今、あの時のお母さんの困惑がよくわかる。子供たちを叱りつけて農家に謝りに行き、切断した網の弁償をするのも選択肢のひとつだっただろう。しかし、彼女は子供たちの善意と笑顔、そして生活費を守ることを選んだのだった。

 母親としてはともかく、大人としてそれが最適解だったのかどうかはわからない。ただひとつ言えるのは、あのとき誰かに叱られていたら、あの田園風景がうつくしい記憶として私の中に残ることはなかっただろうということだ。夏が来るたび思い出す狂おしいほど懐かしい記憶としては。*

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