空想商會

日々の記録。料理やカフェや雑貨の話題が多めです。

手まり唄

 子供の頃の記憶には、普段は忘れているものの、何かの拍子に思い出して「あれは何だったんだろう」とふしぎに思うことがある。

 たいていのことはネットで検索すればわかる時代だけど、子供時代のことは記憶自体があやふやなこともあり、うまく調べられないことも多い。時間をかけて調べるほどのことでもないので、日々の忙しさにかまけて放置しているうち、記憶はさらに不明瞭なものになってしまう。

 今回書きとめておこうと思ったのは、そういう他愛もない記憶の話である。手まり唄の話だ。

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 幼少期の一時期、大阪の北の方に住んでいた。昭和50年代のことである。当時はまだ一緒に住んでいた父の仕事の都合で関東から引っ越したので、家族の誰もが初めて暮らす土地だった。

 大阪といっても中心部から離れていたから、家のまわりは田んぼだらけだった。小学校まで約2kmある通学路のうち、半分くらいは田んぼの中のあぜ道なのだった。

 春はレンゲの赤紫色に、夏は稲の萌葱色に、秋は稲穂の黄金色に、冬は土と霜のモノトーンに、田んぼは周期的に彩られた。子供心にも美しいと思える光景だったが、秋は若干苦手だった。あぜ道を歩いていると、大量発生したイナゴが素足にばちばちとぶつかってくるからだ。気持ち悪くてランドセルをガチャガチャいわせながら一目散に走って帰った。

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 古い土地柄のせいか、その地域は関西独特の佇まいをそこここに残していた。

 私たち家族が住んでいたアパートの向かいには大家さん一家が住んでいた。大家さんの家の姉妹と私は年齢が近かったので、よく一緒に遊んだ。特に歳上のヨシノちゃんからは、ゴムとびやまりつきなど土地に伝わる伝承遊びを色々教えてもらった。

 まりつきといっても使うのはゴムのボールだったが、遊ぶ時に歌う歌が独特だった。少なくとも私が住んだことのある他の地域(東京、栃木、北海道)では類似のものを聞いたことがない。

 覚えている限りの歌詞は次のようなものだ。(数字は便宜的につけた)

  1. ななやこ とうやこ にいやこ さんしょ
  2. 梅に鶯(うぐいす)と 鶯に鶯 さんしょ
  3. おばけが出た 出た すっ飛んだ
  4. たけちゃん 竹馬に 登って 転んだ

 こういう意味不明な短い歌が十個ほどあった。歌に合わせてボールをつき、手の甲の上でボールを転がせたり、片脚を上げてボールをまたいだりして、最後はボールを股の下でバウンドさせて後ろ手にキャッチして終わる。

 後の歌になるにつれて難易度も上がる。私のまりつきの技量は「たけちゃん」で止まっているため、それ以降の歌詞は覚えていない。

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 ふしぎなのは、歌詞は埒もないけれど、曲調には妙に日本情緒があったということだ。「花いちもんめ」や「かごめかごめ」を、もう少しはんなりさせた感じといえばいいだろうか。

 民謡なのだろうかと思って、岩波文庫の『わらべうた』『日本唱歌集』『日本童謡集』などにも当たってみたが、類似の歌は掲載されていなかった。

 一度、知人(宮城県人)にこの手まり歌を歌って聞かせて意見を求めたことがある。その人もやはり聞いたことのない歌だと言っていたが、少し考えて「花柳界由来の歌なんじゃない?」と言った。

 思いつきとはいえ、それは魅力的な仮説のように思われた。大阪は京都に近い。祇園の芸妓さんが歌う歌が子供たちに部分的に継承され、大阪で歌われていたのだとしたら民俗学的に面白い。*1  まあ、憶測の域をでないけれども。

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 まりつきは私が小学校低学年の頃まではポピュラーな遊びだった。しかしある時期を境に急速に遊ばれなくなっていったように思う。

 ある時、友達が長方形の機械をポケットから取り出して誇らしげに見せてくれた。それはゲームウォッチといって、私が初めて目にする携帯型のゲーム機だった。一年も経たない間に、ゲームウォッチはクラスで持っていない子が少数派というまでに普及した(私は少数派の方だった)。

 それすらも通過点でしかなかった。その後ファミリーコンピュータ、略してファミコンが発売されると、ゲームウォッチはあっという間にファミコンに取って代わられた。その後のスイッチやプレステ5に至るゲーム機の興盛は周知のとおりだ。

 気がつけば、まりつきやゴムとびをして遊んでいる子供をもう三十年以上見かけていない。

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 大阪にいたのは五年ほどで、その後なんだかんだと十回以上転居を重ねるうち、大阪の知人との縁はすっかり切れてしまった。

 今はまだ余裕がないけれど、いつか仕事がひと段落したら、手まり歌の起源を探しに彼の地をゆっくり訪ねてみたい。古い土地ゆえ、案外まだ地元の子供たちには細々と受け継がれているかもしれないという淡い期待を込めて。

 いずれにしても、コロナ禍が収まってからの話にはなるが。*

(2021.05.28)

*1:念のため付記しておくと、性風俗産業を肯定しているわけではない。けれども公的福祉のなかった時代、性を売ることでしか生きられない人が現にいたのは事実で、その存在まで否定する権利は私にはない。花街で生まれた文化は、それが誰かを貶めたり傷つけたりするものでない限りは、歴史的遺物として尊重されるべきというのが私の考えです。