空想商會

日々の記録。料理やカフェや雑貨の話題が多めです。

アップルティーの午後

 アップルティーというものを初めて飲んだのは大学1年のときだった。

 何かの折に学生寮の先輩がご馳走してくれたのだ。コンクリート造りの建物のこぢんまりとした台所。珍しく陽が高かったからあれは日曜の午後だったのだろうか。掃除の行き届いていない煤けた窓から射し込むくすんだような陽の光だけが妙に記憶に残っている。

 ちひろさん(仮名)は2学年上の薬学部の先輩で、寮生としては珍しく都会的で垢抜けた雰囲気を持つひとだった。二重の目元はいつも気だるそうで、それでいて自分の興の乗った時だけ瞳をきらりと輝かせた。小悪魔系という言葉の似合うちょっとコケティッシュな美女。このひとはさぞモテるだろうと思っていたが、案の定、卒業後すぐ良縁にめぐまれ結婚されたと風の噂で聞いた。

 ともあれ、そのちひろさんがその時ご馳走してくれたのがフォションのアップルティーだった。1886年創業のパリの高級食料品店で扱われている林檎の香りのフレーバーティー

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 先祖代々まごうことなき庶民である私にとって、高校生のころまでは紅茶といえば日東のティーバッグを意味していた。寮に入った当初、私がマグカップティーバッグで紅茶を淹れる傍らで、先輩たちがティーポットで茶葉から紅茶を淹れるの見て、大人っぽい佇まいに大いに憧れたものだ。

 紅茶はダージリンと決めている人もいればアールグレイ一択という人もいた。後輩である私はたびたび御相伴にあずかっていたが、アップルティーをいただくのはその時が初めてだった。

 茶葉にお湯を注いだ途端に立ちのぼる香気に驚いたのを覚えている。ひと口含むと、砂糖も入れてないのに蜂蜜のように甘い香りが口内に広がった。紅茶本来の香りと林檎の香りとがこんなに相性のいいものだとは、その時まで知らなかった。

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「ね、おいしいでしょう」

 ちひろさんは例によって瞳をきらりと輝かせて金色の缶を見せてくれた。

「アップルティーはここのブランドのが絶対にいいの」

 フォートナム&メイソンのロイヤルブレンドのような正統派ではなく、もちろん日東のティーバッグのような庶民派でもなく、フォションのアップルティーという個性派のセレクトは、いかにもちひろさんにふさわしいように思えた。

 そのあとの会話のゆくえは覚えていない。覚えているのは紅茶の香りと金色の缶、ちひろさんの悪戯っぽい笑顔。こぢんまりとした台所。やわらかな午後の陽射し。

 今朝アップルティーを淹れていて、ふとこんなエピソードを思い出した。他愛もない、文字数にすれば千字に満たないような断章。でも、考えてみると私は今までフォション以外のアップルティーを買ったことがない。してみると、案外こんな断章の積み重ねで人生は作られてゆくのかもしれない。*

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(2016/10/05記、2021/11/7更新)