空想商會

日々の記録。料理やカフェや雑貨の話題が多めです。

『水と茶』斉藤志歩

最近読んだ本のご紹介です。

◼️『水と茶』斉藤志歩(左右社)

水と茶

水と茶

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目次

 

0. ご紹介

 第8回石田波郷新人賞の俳人、斉藤志歩さんの第一句集です。

 30歳そこそこの若手のようですが、芯のしっかりした安定の読みごたえでした。とはいえ堅苦しさは一切なく、むしろユーモラスでさえあります。お茶のおともにぱらぱらめくって、時々クスッと笑わせてもらえる、そんな親しみやすい句集です。

 以下、わたしの好きな句を5つご紹介します。ただ、わたし自身は俳句未経験で句集を読むのも初めて。古文も苦手で作者の句を正しく読めているかどうか微妙です。だから、ここに書くのは鑑賞文ではなく、ましてや批評ではなく、感想文あるいは二次創作のようなものと思ってください。

 

1. きりんの舌

◯秋風やきりんの舌のよく見ゆる

 この句から思い浮かぶのは、たとえばこんな情景です。ある日、作者は友人たちと動物園に行きました。きりんの前でのやりとりです。

A「うわ、でけぇ」
B「背たかーい」
C「首ながーい」
斉藤「舌が赤い」
ABC「そこ?!」

 アウトラインよりディテールが気になるのは作者の特性なのでしょうか。世間一般との感覚のズレがユーモラスな句です。
「いや斉藤さん、きりんだよ?よく見てよ」
「だから、よく見ている」
「いや、そういうことじゃなくてさ…」
という会話の続きまで空想してしまいました。あくまでもからりとした秋晴れの日の出来事です。 

 

2. 栗飯

◯好きらしく栗飯の栗先に食ふ

 ほくほくに炊けた栗ごはん。秋限定のお楽しみですよね。子どもの頃に栗だけほじって食べた経験、誰にでもあるんじゃないでしょうか。
 でも、この句で栗だけ先に食べているのは作者ではありません。家族や親友でもなさそうです。よく知る間柄なら嗜好は把握していますから「好きらしい」とはふつう言いません。
 栗が好きなのは初めて知った。この句にはそんな発見のニュアンスが含まれています。栗ごはんを食べているのは作者にとって、嗜好は把握しきれてないけれど無関心ではいられない人なんです。箸の上げ下ろしまで詳細に観察してしまうほどに。

 栗ごはんの栗だけ先に食べてしまう、子どもっぽいところのある人。作者とどんな関係なんでしょうね? 

 

3. 大かぼちゃ

◯大かぼちゃ刃を抜かうにも切らうにも

 これもユーモラスな、川柳に近いような句です。料理好きな人には「あるある」シチュエーションじゃないでしょうか。 
 まな板からはみ出そうな大かぼちゃ。包丁を入れてみたものの、途中から先に進まない。反対側から切ろうにも、包丁を抜くこともできない。「詰んだー!!」という状況を「抜こうにも切ろうにも」という必要かつ十分な言葉で表現したのがこの句になります。

 この句集には、こんな日常の情景が沢山散りばめられています。なんでもない日々が、作者の視点を通すときらりと光って見える。詩境に入るのに青い鳥を探しに行く必要はない、感度の良いアンテナがあれば「いま、ここ」が詩境たりえる。この句集はそんな思想の実践のようにみえます。
 あるいは、俳句そのものがそういうジャンルなのかもしれませんが。

 

4. とんかちの音

◯とんかちの音はるかなる日永かな

 春のうららかな日、どこかで家でも建てているのでしょうか。とんかちの音が遠くまでひびいてゆく。のどかな日常の風景を詠んだ、すがすがしい句です。
 一方で、つい深読みしたくなる句でもあります。芥川龍之介箴言集『侏儒の言葉』に次のような一節があるからです。

〈打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。〉

 個々の芸術家は滅びても、芸術は必ず民衆の中に種子を残している。そう芥川は書き遺しています。アーティストとしての強烈な自負を感じさせる一文です。
 で、この句は芥川へのオマージュかも、と一瞬思ったのでした。芥川が蒔いた芸術のタネが、斉藤さんに根付いて芽吹いてこの句を詠ませたのだったら面白い。九割方わたしの妄想ですけれど、そんな悠久の営みをも感じさせる、のびのびした句です。

 

5. 散る花に

◯散る花に風の行く手のつまびらか

 桜が風に舞い散る様子を詠んだ句です。
 つまびらか、というワードチョイスがまず良いと思いました。「細かい点まではっきりしているさま」という意味の言葉ですが、発音的に〈花びら〉とか〈ひらひら舞う〉という言葉を連想させるので〈散る花〉に合ってる感じがします。

 ただ、この句のポイントは花よりも、それによって明らかにされた風のゆくえの方に置かれているように見えます。「桜がきれい」という感想より、「花びらのおかげで風の流れが見えた」という発見のよろこびに気持ちが傾いているように見える。
 もっと言えば、眼前の花びらや風向き以上に、その背後にある大きなもの、自然界の法則のようなものに対して作者は心を震わせているようにも思えました。どことなく理系的なセンスを感じる句です。*